
あらすじ
本気を嗤う奴らを、本気で笑わせろ。新時代のお笑い青春ラブコメ、開幕!
――滲む努力さえ、笑いに変わるんだよ。
とある女の子を笑わせる為に頑張る高校生・晴比古のもとに、美人だが奇行を繰り返す先輩・中屋敷結羅がやってきて……
「『校内一の奇人』と言われた私と笑わせるために頑張るキミ。そんな二人がコンビを組んで、全国民の笑いをかっさらうなんて最高にドキドキしない? するよね、だってさ──」
ツッコミの才能を見出され、漫才コンビを結成した晴比古。練習を重ねる中で次第に結羅との距離も縮まって――でも青春は恋愛だけじゃない。本気を嗤うやつらを本気で笑わせろ! ファンタジア大賞<金賞>受賞、新時代のお笑い青春ラブコメ!
好きな子のために頑張る主人公は最高!……と素直に言うには途中で物語の流れが変わるものの、それでも変わった先含めて面白い話だった。
ただ、漫才自体は小説の題材とするには難しいのかもとも。このあたり他にも漫才ネタ小説読んでみたいな。
普段はツッコミ気味少年、恋愛でだけ全力でボケ
面白いものが好きっぽいんだけど全然笑ってくれない瀬音に笑ってもらうためにバカやってる市井。そんな市井が漫才大好きだけど変人で有名な先輩・結羅に相棒としてスカウトされて物語は始まる。結羅は変な人だし漫才自体に興味はないけれど、大好きな瀬音は漫才が好きっぽい。好きな子の好きなもので笑わせて好きになってもらうぞ!と、一切知らない漫才の世界に飛び込もうとする市井が、恋に全力でまっすぐで、読んでて応援したくなる。
もともとわたしが、誰かに片思いしていてその子に振り向いてもらうために全力で頑張る主人公の話が好きなので、その部分に真っ向からぶっ刺さった。
市井って、結羅からも言われているが語彙豊富かつ頭の回転が早いツッコミ属性なんだけど、瀬音に関することだけは完全にポンコツになってるのが読んでてギャップとして笑ってしまう。そもそもの物語の冒頭で出てくる乳首相撲とかいうもうわけのわからないものもそうだし、
やはり、結羅と漫才をすれば瀬音の笑顔が拝めるに違いない。
さすれば、俺の恋は成就したも同然だろう。
気が早い。
「志摩と瀬音さんが、来週の月曜日にデートするらしい」
(中略)
「……志摩を鞍馬山に埋めるしか無いか」
(中略)
「ああ、クソ! やっぱり志摩を埋めるのが一番早いな」
「ハルくんって、恋愛が絡むと底抜けにポンコツだね」
本当にポンコツレベルが高くて笑ってしまった。普段の会話はあんなにツッコミなのに、恋で完全におかしくなるタイプの男だ!!
そんな市井が奇人変人奇行種顔だけ良いと言われる先輩・結羅と漫才をしていくうちに、次第に漫才にのめり込み、大きめの大会に出てキャリアの長い芸人に真っ向から否定されてダメ出しされて叩かれ――そんな状況でも折れず挫けずやっていくうちに、瀬音に笑ってほしいということよりも漫才自体が楽しくなっていく市井がアツかった! 結果として君の笑顔が見たいだけだった物語が君と笑顔が見たいだけになっていく変化も、これだけ一緒にいてイベント重ねてきた結果だよなあと思えば素直に受け入れられる。
恋に一生懸命だった少年が、漫才に全力投球して人生かけることを決めてる相方や、音楽に全力投球している同級生、漫才に本気出してる先輩芸人を見ていくうちに自分の夢を決める物語っていうのは、王道だけれどもすごく面白かった!
でもわたしが市井を好きになった部分が瀬音にまっすぐに好意を向け続けていたところなので、最終的に市井の好きな相手が瀬音から結羅に変わっちゃったのはウーンとなってしまった。流れもわかるし理屈もわかる、頭では理解できるけれども感情では理解したくない……という面倒くさいアレ。というのを考えていて、東映の白倉Pの語ってたインタを思い出した。
白倉:あくまで傾向ではありますが、最近は視聴者から、善玉と悪玉をはっきりと描写することを求める声が強くなっている気がします。物語の序盤で提示したキャラクター像を、最終回まで一貫して維持することが求められる、といいますか。キャラクターが途中で考えを変えたり、善悪の境界線を越えたりすることに対しては、「設定崩壊」とも言われかねない状況です。
(中略)
途中で考え方が変わったり、ブレたりするようでは、視聴者の期待に応えられません。
もろにこれでした。すみません。
好きだった場所が変わってしまうというの、そりゃ当然だし、違ってもいいよな。変化がないほうがつまらんし。
最終的に瀬音は笑うために市井を利用した→母親の芸風を継ぐ結羅の力を引き出せる男として市井が結羅と組んで漫才をさせたかったという目的だったと明かす。でも、話の流れからして一部が嘘で一部が本当。
「観たい。市井と結羅先輩の漫才、観たい。結羅先輩のボケと市井のツッコミが合わさったら、すごいことになると思う」
この時点で瀬音はもう狙ってたんだろうな。だけど瀬尾にとって市井は、ずっと無表情でろくに笑わない自分にくっついてきて、自分の真の願いである笑いたいというのを見抜いて笑わせようと頑張って、そのために漫才始めたりし始めた男。完全に無感情なわけじゃない。それが「もし市井がまだ私のことを好いてくれてたら、彼女にしてくださいって言える未来があったのかも」に全部出てるんだよなあ……。瀬音が呪縛から開放された今だからこそ言える言葉だけれども、そうなった今は市井の心は瀬音にない。不条理。つらすぎるンゴ。
文字で漫才を描くのって面白い
「ストップ。間をもう少し確保したほうがいいかも」
「息を一瞬入れる感じか?」
「そうだね。ちょっと困惑してるニュアンスが欲しいから」
結羅はとにかく間を意識している。タイミングが少し異なるだけで、笑いの量は激変してしまうらしい。
作中では大事にされている間だけれども、実際その台詞を喋ることができる本物の漫才はそれが制御出来ても、物語は読者が読む速度を制御してしまうので、その間が全くわからない。これって漫才というコンテンツを小説で行う上ですげえデメリットになるんじゃないのかな。最後の文化祭での漫才も、もし目の前で彼らがやってくれたら、きっともっと面白いんだろうなと思った。掛け合いとしての会話じゃなくて漫才として読みたかったな。
あさのあつこのThe MANZAIはこのあたりどう描いてるんだろう。そのうち読み比べてみたいと思った。
作中で、下記のような台詞がある。
「可愛すぎるねん。今日かて、若い連中が色めき立ってたわ」
(中略)
「生き残れる女芸人は大きく分けて二種類おる。ブスとおもろい奴や、それ以外は売れん。顔が良いやつは、どうしても第一印象が『可愛い』になってまう。その印象を打ち破るには顔面以上の何かがないとアカンねん。消費期限が短いアイドル枠を狙うなら別やけどな」
あーなるほど……いやこれ男女関係ないんじゃね?
ちょうど今年の4月ぐらいに男芸人に惚れ込んでブロックされた人のnoteが話題になっていたけれど、あれだって声に癒やされた+顔が好き+お笑いは面白くないという内容だった。そもそも顔ばっか見てネタのほうはあんまり……なファンってワーキャーという名称がつくぐらいには知られている。顔が良いと「顔が良い……」が第一印象になってしまい、面白さは二の次になってしまう。それってすごいもったいないことだよなあ。よしVTuberになれ。
配信者は配信者で男の姿で配信しても見てもらえなかったがバ美肉したら見てもらえるようになったよーみたいなラノベもあるし、結局外見なり何なり、ぱっと見である程度客を引き付けてネタを見せないと固定客なんて出来ないとおもうが、そのあたりどうなんだろうね。
