彼女が好きなものはホモであって僕ではない 浅原 ナオト
あらすじ
同性愛者であることを隠して日々を過ごす男子高校生・安藤純は、同級生の女子・三浦紗枝がいわゆる腐女子であることを知り、彼女と急接近する。
異性を愛し、子を成し、家庭を築きたい。
世間が「ふつう」と呼ぶ幸せを手に入れたい。
少年の切実な願いと少女の純粋な想いが交わるとき、そこに生まれるものは――
世間の「ふつう」と、自分の本当にほしいものの差に悩んだことがある全ての人に送る、切なくも暖かい青春小説。
好きなものって何なのか
ものすごく雑に紹介するなら「腐女子とゲイの少年の恋愛青春小説」になるのだと思う。下手に取り扱ったら大やけどしそうな話だけれども、どうしようもないぐらい読んでるこっちの精神が痛い真面目な小説だった。
読んでいる最中、延々と主人公とこっちの精神に小さく傷をつけられ続けている気分。
あらすじにある通りの流れで三浦さんと急接近した純は、彼女に対して好感を持っていく。彼女が自分に対して気があるのもわかるし、遊園地に男子3人女子3人で行くことになったのもそういう意味でと教えられた上で行く。
三浦さん自体は悪い人じゃない。だからお付き合いも始める。彼女のことは好きだ。自分の家で二人っきりになってベッドに押し倒して、でも反応しなかった。
このあたりの主人公の痛さがもうしんどくて。彼女のことを好きなのは事実だしそういうことを期待されてるのもわかる、でも反応しない。心と体が絶妙に違うというあたりの主人公のしんどさがきつい。彼女のことが嫌いなわけじゃなく好きだからこそ尚更に。
更には幼馴染で親友の少年が実は彼女のことを好きだとか、そういった青春小説の青い部分も出てくる。青くて清々しくて、めちゃくちゃにしんどい。
主人公を取り巻く周囲の空気というか、わたしたちにとってはごくごく日常かもしれない、特段意識したこともないようなものが当事者にはざっくり刺さるというのを明確に描写されてるのが地味にきつい。
ホモを嫌悪するネタとして話されたりする日常で、主人公は、自分が同性愛者だと告げていないのだから目の前でネタにされてもしょうがないと諦めている。
きっとわたしたちの日常も、意識して聞いていないから聞き流してるだけで、こういった会話はいたるところにある気がする。
終盤物語が大きく動く。
わたしはこの終盤の三浦さんの未成年の告白シーンが一番好きだった。
というか、
「 惚れたはいいけれど、わたしはどうすればいいか分かりませんでした。なにせわたしは小学校の時からホモ一筋で、男子は全てホモであればいいと思って来た女なのです。恋の仕方なんて分かりません」
からの
「初めて出会った、ホモであって欲しくない男の子は、ホモでした」
の流れがしんどすぎる。それをあえて人前で叫ぶことを選んだ三浦さんは、強い人だと思った。
純にとっては三浦さんとの関係は、恋ではないけれども愛ではあって、辛いけれども楽しい時間だったんだよなと思う。でも三浦さんにとっても純との関係は、楽しいばっかじゃなかったんだよな。
BL本差し入れしたりBL星について語ったり、私はホモが好き、あなたはホモ、だから良いっていうあたりの開き直った三浦さんは痛々しいけど清々しくて好き。
痛くて辛くてしんどくて、清々しくて青くて、すごく良い青春恋愛小説だった。
完全にタイトルやあらすじで何の気なしに手にとった人を殺しに来る話だと思った。
タイトルの「ホモ」に関して。
著者の近況ノートに明記されていて、なおかつ出版社の本の紹介ページにもリンクされている文章がある。
さて、僕が作品に込めた想いを語るのに絶対に避けては通れないものが一つあります。それは「タイトル」です。
だいたいの人はご存知でしょうし僕も作中で記していますが、「ホモ」は当事者にとって悪いイメージのある言葉です。重さはだいぶ違いますが、「ハゲ」とか「デブ」とか「ブス」とか、そんな感じ。はっきり言って、使わないで済むなら使わない方がいい。なのに、どうしてそんなデリケートな言葉を、よりにもよって作品の顔であるタイトルに据えたのか。それはもちろんついうっかりではなく、明確な意図があります。
つまり僕は、割と気軽に悪い意味で「ホモ」を使ってしまう人にこそ、この作品を読んでもらいたいのです。
そういうことなのだと思う。この本を手に取る人こそが作者の狙った読者層なのだろうなと。ちなみにこれに関しては作中で強めに釘刺されていた.。